「ねえ、渚君。無理しないで、少しここで休んでいこうよ?」渚の声で僕は現実に引き戻された。顔を上げると、千尋が心配そうに見つめている。ここにいる? それは無理だ。ここにいるのはもう限界だった。「嫌だ……。この場所から離れたい……」こんな場所にいつまでもいたら、頭がおかしくなりそうだ。波の音と潮風があの時の記憶を呼び覚まし、酷い頭痛と眩暈がする。千尋は海から離れるまで僕を支えてくれた。ごめん……千尋。迷惑かけて。たまたま近くにあったファストフード店に二人で入ることにした。大分具合は良くなってきたけど、まだ酷い眩暈がする。「ごめん……ね……千尋。折角二人で楽しもうと思ってたのに」無理して笑顔で言ったけど千尋は心配そうに僕を見ている。千尋が何か言いかけたけど、途中でやめてしまった。何を言いたかったのかな? 情けない男だと思われたかもしれない。具合が悪い僕を気遣ってか、千尋は帰ろうと言い出した。確かに今日の僕は体調が悪くて限界かもしれない。明日から僕も千尋も仕事だから帰ることに決めた。 **** 夜は二人で海鮮鍋を作った。並んで台所に立つと何だか新婚夫婦みたいだ。自然と気持ちが弾んで鼻歌が出てしまった。千尋もニコニコしている。良かった、今日僕のせいで千尋に気まずい思いをさせてしまったからね。鍋をストーブにかけると、二人で交代でお風呂に入った。たまにはこういうのもありかもね。お風呂から上がると二人で日本酒を飲みながら鍋料理を食べた。千尋の用意した日本酒はすごく美味しくて、いつになく饒舌に日本酒について語っている。「ははは……。千尋は本当にお酒が好きなんだね。でも明日から仕事なんだからあまりお酒飲み過ぎない方がいいよ?」すると、千尋はこの先いつでも飲めるからと言ってくれた。その言葉はとても嬉しかったけど、僕の心に暗い影を落とす。「この先いつでも……か」小声で言ったつもりが千尋の耳にも届いていたらしい。千尋は僕の言葉を聞いて不安そうにしている。ごめん、こんなこと本当は言うつもりじゃ無かったのに……。僕が後片付けをしようとしたけど、何故か今夜の千尋は頑として譲らなかった。「今日海で具合が悪くなったでしょう? 私がやるから大丈夫だってば」そう言われてしまえば、僕は返す言葉も無い。だから厚意に甘えて僕は先に休ませてもらうことにした――
3つの記憶を同時に持つと言う事は中々困難なことだと思う。 間宮渚の記憶は普段は記憶の奥底に閉じ込めておくことが出来る。大分この身体にも慣れてきたお陰か、必要な時だけ記憶を取り出せるようになっていた。でも僕を苦しめるのは前世の記憶。これは実際僕が過去において経験したことだから押し込めておくことなんて出来ない。咲と過ごした楽しい記憶もあるけれど、やはり生々しい戦の記憶は封じ込めておけない。夢の中で度々僕は過去の記憶の悪夢にさいなまされる。最近特に悪夢が増えてきたのは、やはりもうすぐ自分が消えてしまう恐怖からなのかもしれない……。 **** クリスマスも終わり、年が明けた。僕と千尋は穏やかな時を過ごしている。千尋と過ごせる時間も残りわずかなのはもう分かっている。だって、自分の身体が消える時間がどんどん増えて来てるんだから。今は消えるのは両手のみだけど、やがて徐々に他の部分も消えるのだろうと思うと頭がおかしくなりそうだった。だからなるべく考えないようにしている。千尋ともっと色々な思い出を作りたい、その思いを胸に僕は最後は潔くこの世から消える。そう、心に決めた。「ねえ、千尋。明日二人で一緒に出掛けない?」今日が休みの最終日。僕は思い切って千尋を誘ってみた。千尋は快く快諾してくれた。そこで僕は千尋を連れて以前から行ってみたいと思っていた水族館へ誘ってみた。そこは海のすぐそばにある水族館。きっと千尋も気に入ってくれるはずだ。 着いてみるとちょっとだけ驚いた。館内は若い男女のペアばかり。皆手を繋ぎあったり腕を組んで歩いてる。ここで僕たちが手を繋がないのは不自然かな?「手……繋ごうか?」僕が尋ねると千尋は黙って頷いた。手を差し出すと、千尋もおずおずと手を伸ばす。そこを指をからめとってしっかりと繋いだ。千尋は驚いたように僕を見たけど、恥ずかしいのでわざと横を向く。でも顔が赤くなってるのがばれてしまったみたいだ。そんな僕を見て千尋はクスリと笑うと、僕のつないだ手をギュッと握りしめた。驚いて千尋を見ると彼女は笑顔を向けてきた。「行こうか? 渚君」とーー 水族館は間宮渚の記憶にも無かった。彼は一度も水族館には来ていないのだろう。お陰で新鮮な気持ちで観る事が出来た。 水族館を出ると二人で海沿いのカフェでランチを取ることにした。会話の中で高校生の時、
—来週はクリスマスイブだ。最近身体の調子がおかしくなってきた。初めてその現象が起こったのは数日前。突然右手に激しい痛みが走り、手首から指先までかけて半透明に透き通り始めた。「!」それはほんの一瞬で、すぐに元に戻った。けれど僕は恐怖に震えた。ああ…とうとう始まったのだ。こうやって徐々に身体が消え、いずれ間宮渚と身体が一体化して僕の魂は消えていくのだろう。嫌だ、消えたくない。だって僕はまだ千尋に肝心なことを聞いていないのに。**** この日の夜。僕と千尋は里中さんと、先輩にあたる近藤という人と皆でラーメンを食べに行くことになった。近藤さんはとても気さくなタイプの人で、どうも千尋と里中さんの仲を取り持ってあげようと画策していたみたいだった。でも僕は反対出来ない。だってもうすぐ消えてしまう僕に、千尋を縛り付けることは出来ない。その後どういう話の流れか、里中さんも僕たちのクリスマスパーティーに参加することが決定していた。****——クリスマスイブランチを食べに来ていた近藤さんが突然僕に声をかけてきた。「間宮君、ちょっといいかな?」「はい、どうかしましたか?」「実は里中が高熱を出して寝込んでしまったんだ。悪いけど今日のパーティーは欠席させて欲しいと伝えてくれって言われたよ」「え? 里中さん、大丈夫なんですか?」「う~ん。あいつ一人暮らしだし、料理もしないから大変かもな。でもあいつには悪いけど余裕が無くて。今日はこっち、人手が足りないんだよ」近藤さんは随分困っているようだ。そこで僕は閃いた。「近藤さん、ちょっとだけ待っててもらえますか?」厨房に戻ると責任者の人に午後から半休を貰えないか聞いてみた。すぐに休みの許可を出してもらうことが出来たので僕は近藤さんの元へと戻った「近藤さん、僕が代わりに行ってきます。だから里中さんの住所教えてください」 **** それにしても里中さんの部屋のマンションを開けた時は本当に驚いた。まさか部屋の真ん中で倒れているなんて思いもしなかった。が看病しに来たことを話すと照れ臭そうにお礼を言ってきた。…多分彼となら千尋は幸せになれるだろうな。でもそう考えると胸の奥がチリリと痛む。 結局この日のクリスマスパーティーは中止になった。やっぱり里中さんに悪いからね。……大丈夫だよ。僕はいないけど来年もまたやれるんだか
何処へ出掛ける? って千尋に聞かれたとき、僕には色々行ってみたい場所があったけど、最初のお出かけはもう決めていた。千尋が休みの時、普段どんな過ごし方をしているのかがどうしても知りたかった。「こんな単純なお出かけでいいの?」 千尋は驚いたように訊ねてきたけど、僕は十分満足だった。 二人での初めての外出は本当に素晴らしい日となった。まず千尋。普段の服装とは全く違った女の子らしい服装ですごく似合っていた。他のどの女の子達よりもずっと可愛かったなあ。なんせ他の男の人達からも注目を浴びていたしね。でも正直、千尋を僕以外の男の目に晒したくない。だから千尋に言ったんだ。「僕が側についていないと、悪い男に声をかけられてしまうかもよ。だから……さ。手、繋がない?」嘘だ、本当はこんなの詭弁だ。ただ僕が千尋と手を繋いで街を歩きたかっただけ。でも千尋は嫌がらずに手を差し出してきた。僕はその手をそっと握る。うわあ……小さくて柔らかい手だなあ……。千尋を見ると少し耳が赤くなっているのが分かった。そんな千尋を見ていると僕まで照れてしまう。「何だか……ちょと照れちゃうね」照れ隠しに言ってみた。千尋はそれじゃやめる? って聞いてきたけど、僕にはやめる気なんか全くない。だから、より一層千尋の手を握りしめた。 僕が選んだお店のランチ、千尋すごく喜んでくれた。本屋さんでじっくり選んだ甲斐があったなあ。だからもっと僕を頼ってね。だって僕がここにいる存在理由は千尋なんだから。 楽しいデートが終わって帰り道のスーパー。僕は後どれ位千尋とこうしていられるのだろう。そう思うと何だか切なくなってきた。そんな僕に気が付いたのか、千尋が声をかけてきた。「どうしたの? 渚君。何だか元気が無いように見えるけど」ああ、やっぱり君は優しいね。僕の落ち込んでる姿に気が付いてくれるなんて。「うん……。楽しい時間てあっという間に過ぎて行ってしまうんだなと思うと少し寂しい気持ちになってね」「いつも一緒にいるのに?」「だけど、いつまでも一緒にいられるとは限らないかもしれないし」しまった。つい自分の本音を千尋に語ってしまった。「え……? それは一体どういう意味……?」途端に千尋の表情が曇る。もしかして僕にいなくならないで欲しいって思ってる? 少しは期待を持ってもいいのかな?「千尋、またこんな風に僕と出
その日の真夜中、何故か僕は見知らぬベッドで寝ていた。一体ここはどこだろう? 僕はパニックになった。それに身体が思うように動かない。何とかふらつく身体を起こし、周囲を見渡した。「あれ……もしかしてここは病院……?」僕はどうやら個室のベッドに寝ていたらしい。ベッドに取り付けられた名札は無記名になっている。辺りを見渡し、そっと病室を出て部屋番号を確認する。「502号室……」ひょっとするとここは本物の間宮渚が入院している病院なのかもしれない。そこで、この病院の名前が分かる物が何かないか病室に戻り探してみることにした。テレビ台の引き出しを開けてみると病院のパンフレットがある。「国立総合病院」とあった。住所は、僕らが住んでいる場所から電車で数駅と割と近い病院だ。場所は分かったけど、どうしたらまた千尋の元に戻れるのだろう? いっそこのまま病院を抜け出してしまおうか? そもそも僕と間宮渚の身体は一つになってしまったのだろうか?悪い考えだけがグルグル頭を巡る。その時。巡回の看護師だろうか、こちらに近づいてくる。慌ててベッドに入ると眠ったフリをした。やがて看護師は部屋のドアを開ける。どうかこの部屋に入って来ませんように……。僕は必死で祈った。すると祈りが通じたのか、看護師はライトでグルリと部屋を照らしただけで、すぐに部屋から出て行った。良かった……。何とかバレずにすんだみたいだ。それにしてもこんな状況だと言うのに異常な眠気が僕を襲ってきた。もう意識を保っているのも難しい。そのまま僕は結局眠ってしまった……。 朝、目覚めるとそこは僕がいつも寝起きしている幸男さんの部屋だった。もしかしてあれは夢だったのだろうか? やけにリアルな夢だったなあ……。恐らく、この生活は長くは続かないんじゃないだろうか? 僕の本能がそう言ってる。本物の間宮渚はひょっとすると生きようと思っているのかもしれない。もし彼が目を覚ました時……それは恐らく僕がこの世から消滅してしまう日となるのだろう。そんな予感がする。だって元々この身体は彼の物。僕の身体はとっくに死んで無くなってしまっているのだから。だとしたら千尋と過ごすこの時間、一分一秒でも長く側にいたい。だから僕は朝ご飯を食べている時千尋に訊ねた。「今日、二人で一緒に何処かに出掛けてみたいかな……なんて」「そうだね、特
その日の夜にワインを飲みながら仕事が決まったことを千尋に話す。ようやく千尋のお金の負担を減らすことが出来ると言ったら、何故か千尋の顔が曇った。どうしてだろう? でも後で話を聞いたら、それは僕がこの家を出て行ってしまうのではないかと思ったからだって。それを聞いたとき、僕は思わず彼女を抱きしめたくなってしまった。仕事が決まったことで、僕は前から計画していた話を千尋に伝えることにした。「……仕事は決まったけど……ここの家に置いてもらいたいんだ。駄目かな?」声がどうしても震えてしまう。千尋が固い表情で話を聞いている。お願いだ、どうか僕を拒絶しないで。千尋の側にいさせて欲しいんだ。黙っていられると不安でたまらない。僕は更に続けた。「これからはお給料も貰えるから、生活費だって千尋に渡せる。ううん、僕のお金なんて全部渡しても構わないと思ってる」だから、僕を遠ざけないで——見上げた千尋の手を思わず僕はギュッと握りしめていた。彼女の身体がビクリと震える。しまった! 驚かせてしまったかも………。でも、このまま千尋を諦めたくない。「千尋さえ良かったら……僕が迷惑じゃないなら、君の側にいさせて欲しいんだ……」 最後は縋るようなセリフになっていた。すると……。「何言ってるの? 当たり前だよ。私が渚君を必要だってこと、そんなの……とっくに分かってると思ってたけど?」笑顔で答えた千尋に僕の心は震えた。やっぱり僕は千尋を愛してるんだって。 千尋と二人で飲むワインは本当に美味しかった。慣れないワインに頬を赤く染めている千尋はゾクリとする程綺麗だった。そう言えば、あの頃は毎日が戦でお酒なんて飲むことすら出来なかったしね。お酒を飲むときの千尋はこういう顔を見せるのか。また一つ千尋の別の表情を発見したよ。 いつの間にか千尋はすっかり酔ってしまい、テーブルに突っ伏して眠ってしまった。僕はそんな様子の千尋を少しだけ観察してみた。でも、ここで眠ったりしたら風邪ひいてしまうかもしれない。「千尋、ここで寝たら駄目だよ」そっと千尋を揺すってみる。「う~ん……」でも一向に千尋は目を覚ます気配が無い。どうしようかと思ったけれど、こうなったら部屋に運んであげるしかないか。 眠っている千尋の背中を椅子の背もたれに寄りかからせると、起こさないように担ぎ上げて部屋へ連れて行く。ベッド